06

が眠りについてから十日目
オルオは小さな棚に書類を置いてペンを握っていた
必要事項を書いて、サインをして、見直してから次の書類へと移る
部屋の掃除とか、兵長の補佐は他の班員が引き受けてくれていた
静かな室内でひたすらペン先を紙面に走らせる
そんな自分の隣にあるベッドではが眠り続けていた
定期的に駐屯兵が来て姉の体の向きを変えている
自分は手が空いた時に彼女の手足をマッサージしていた
長く動かさずにいれば目が覚めた時に思うように動けないだろうから
最後の書類を終わらせるとペンを置き、傍らに置かれた小さな容器を片手に立ち上がる
軽く体を伸ばすとベッドに腰を下ろして仰向けになっているの顔を見た
一定の間隔で繰り返される呼吸と、あの日から開かれていない瞼
その様子を見ながら容器の蓋を開けると中身へと視線を落とした
ペトラがの唇がカサカサだからと言って買ってきたリップクリーム
その表面に指先を触れ、体温で溶かすとその指でそっと姉の唇に触れた
実の姉弟とはいえ、こうして唇に触れるのは気恥ずかしい
だが、ペトラが「こうやって使うのよ」と教えてくれた通りにの唇をそれで潤した
ゆっくりと指を離すと容器に蓋をして棚に置き、今度は彼女の左手に触れる
肘を曲げて、伸ばす動きを何度か繰り返し、それから手の指を一本ずつ動かした

「……痩せたな。どうするんだよ、姉ちゃん。元が細いのにこれ以上痩せたら……兵長に怒られるぞ」

そんな独り言を呟きながら全ての指を曲げるようにして姉の手を握りこむ
眠っている間、食事を食べていないのだから当然ながら栄養は取れなかった
辛うじて、水分だけは口の端からほんの少しだけ飲ませる事は出来るが――
でも、やはり食べる事が出来なければその命は終わるだろう
だから、出来るだけ早く、手遅れになる前に目を覚まして欲しかった
そう思い、手の力を抜くと今度は指を開かせる
自分よりも小さな手は以前よりも指が細くなり骨が目立つようになっていた
姉はこのまま眠った状態で一度も目覚める事はなく――
一瞬そんな考えが脳裏を過り、ぶんぶんと首を振った

「駄目だろ、そんなの……姉ちゃんはまだ……二十一歳なんだぞ……!」

兵士として生きる道を選んだ姉
それでも女性としての幸せを掴んで欲しいと思っていた
だがそんな思いに反して美人だというのに恋人は出来ずに今に至る
姉を側で見続けてきた自分には想いを寄せる相手がいるというのは分かっていた
そしてその相手が、誰であるのかも――
よりによって、団長に恋をするとは思わなかったが姉が選んだのだからと静観していた
なにか出来る事があればとも思ったが何も思いつかなくて
は好きな人を――調査兵団の団長を庇って今の状態になっている
それが姉の選択なのだから文句を言うつもりはなかった
ただ、早く起きてくれと願うだけで
そう思い、次は右手をと思ったところで扉がノックされる

「はい」

返事をすると扉が開いて白衣を身に着けた老医師が顔を覗かせた
視線が合うと彼がゆっくりと室内に入り側へと近付いて来る

さんのことで、お話が……」
「っ……はい」
「……真に言い難いことですが……明日になっても目が覚めなければ、ご家族を……」
「……」
「家族の声を聞くことで目が覚める可能性もあります。きっと、耳は聞こえていますから」
「わ……わかり、ました」

なんとかそう答えると医者が会釈をして部屋を出て行った
扉が閉められて、足音が遠ざかって
その音が途切れたところでオルオは手の甲でぐいぐいと目元を拭った

「……はぁっ。ほら、姉ちゃん。さっさと起きないと家族が呼ばれちまうぞ」

目が覚めなくてもせめて生きている内にという医者の配慮なのだろう
でもその言葉は自分には残酷なものだった
両親が、弟が、この痩せた状態の彼女を見てどんな顔をするか
回避するには姉が目を覚ませば済むのだがそれがこの上なく難しい
泣きそうになるがなんとかそれを堪えると立ち上がり、ベッドの反対側に回り込んだ
再び腰を下ろすと右手を取って肘を支える
曲げて、伸ばして、と先ほどと同じように関節を動かした
手指も同様に曲げさせるが少し力を入れなければならない
時間を掛けて関節の強張りを解しているとコンコン、とノックの音が耳に届いた

「はい」

今度は誰だと思いながらそう返す
扉が開く音が聞こえ、こちらへと歩み寄る足音が近付いて
ベッドの側でその音が途切れるとオルオは漸くそちらへ顔を向けた

「あ、団長」
「あぁ……まだ、眠っていたか」
「はい……こんなに寝坊して、減給ものッスね」
「フッ、そうだな……」

団長相手にそんな冗談を口にして姉の手をそっと下ろす
ベッドから腰を上げるとベッドを回り込んでサイドテーブルに置いたままの書類を手に取った

「団長。俺これを届けて来ますんで……」
「あぁ。彼女は私が看ていよう」
「お願いします」

そう言い、書類を重ね直してその場を離れる
扉に近付き、ノブを握るとそこで動きを止めた
少し迷ったが話すべきだろうと思い、扉の方を向いたまま口を開く

「団長」
「うん?」
「……姉ちゃん、明日になっても目が覚めなかったら……家族を、呼ぶようにって」
「っ……」
「俺、起きると思って……いえ、絶対に起きるんで、大丈夫だと……」
「……そうか。分かった」

エルヴィンの静かな声を聞いてふうと息をはきだした

「すみません、ついでにちょっと飯食って来るんで……」
「あぁ」

団長の返答を聞いて今度こそ部屋を出る
扉を開けて廊下に出ると強く握って皺が寄ってしまった書類を軽く伸ばした
本当は食欲なんてないし、食べたくもない
姉が眠ってから自分の食事はカップ一杯のスープだけだった
それだけだとさっさと済ませる事が出来るから
いつものベルト穴の位置ではちょっと緩くなってきてしまったのには困っているが――

(姉ちゃんが起きてくれたら……安心して食えるんだけどな……)

オルオはそう思い、小さく溜息を漏らすと重く感じる足をゆっくりと踏み出した




ベッドの側に立ったまま、を見下ろす
あの日から時間が許す限りは側に居るようにしていた
彼女の弟であるオルオが少しは休めるようにと
班員もそれぞれ様子を見に来ては彼に食事をとらせたり寝させたりしているらしい
当の本人は皆の気遣いに気付いていても、口にする食事は少量でろくに眠ってもいないようだが
彼の事も心配だと思いながら椅子ではなくベッドに腰を下ろした
手に触れると直前のマッサージの為か普段よりも温かな体温を感じられる
こうして生きているのに、状況は悪かった

、目を開けてくれ……」

そう呟いても少しだけ開けられた窓から吹き込む風に前髪が揺れるだけ
ふわふわの柔らかな髪が肌を撫でるのを見てエルヴィンはそっと手を下ろすと彼女の体の横に片手をついた
もう一方の手を彼女の頬に触れて撫でるように指で摩る
滑らかだった肌は、少しカサついていた
それに食べていないせいだろうが明らかに痩せている
このまま衰弱して命を落とす可能性があるのか
まだ若い女性が――後輩に慕われ、仲間に頼られ、そして分隊長からも信頼されている
更に自分が、想いを寄せているが――
エルヴィンはベッドに触れる手にぐっと力を籠めるとゆっくりと上体を倒した
閉じられた瞼を縁どる長いまつ毛を見ながら己も目を閉じる
それから間を置かずに唇を重ねた
ペトラが買ってきたという唇に塗るクリームがしっとりとした感触を返してくる
それを感じながらゆっくりと顔を離した
遠い昔、まだ自分が子どもの頃に読んだ本の物語
魔女の呪いで眠りについた姫を異国の王子が口づけをした事で目覚めるというような内容だった
当時からあり得ないとは思っていたが、今の自分にはそれに縋りたい気持ちがある
勿論自分は王子ではないし、彼女は姫ではない
分かってはいるが、ほんの僅かな希望を――と思ったところで近い距離にあるの瞼が震えた
薄く目を開け、何度か瞬きをして
それから視線が自分を見るのが分かり、思わず笑みを零した


「……、……」

名を呼ぶと口を開いて何かを言おうとする
だがそれは言葉にはならず、長く眠っていたせいで声が出ないのだと分かった

「あぁ、無理に話さなくて良い。今、医師を呼んでくる」

そう言い、体を起こすとベッドを離れて戸口へと向かう
ノブに手を触れて、振り返ると首を少し傾けてこちらを見ている彼女の姿が見えた
夢ではなく、確実に目覚めたのを確認すると扉を開ける
廊下に片足を踏み出したところで隣室から出て来た白衣の老医師を見付けた

が目覚めました」
「なんと!」

自分の言葉に彼が驚いた表情を浮かべ、転びそうになりながらこちらに向かって来る
戸口から避けて医師を通すとベッドへと駆け寄る背中を見た
何か声を掛け、手首に触れたり目を見たり
聴診器を胸や腹部に当てて音を聞いたり――
一通り体調を確認すると毛布を掛け直してこちらへと歩み寄って来る

「予想よりもだいぶ状態が良いです。まだ上手くは話せませんが……少しずつ食事を。まずは具のないスープから始めましょう」
「はい」
「意識はしっかりしています。少し体が動き難いでしょうが……弟さんが熱心にマッサージをしていたので復帰は早いですよ」
「そうですか」
「では、私はこれで……ああ、そうだ。彼女に水を飲ませてください。少しずつ、ゆっくりと」
「分かりました」

そんな言葉を交わして医者がいそいそと部屋を出て行った
その足取りが軽いのはが目を覚ましたからだろうか
そう思いながらベッドへと歩み寄るとベッドサイドのテーブルに置かれた水差しからグラスへと水を注いだ
常温の水だが今の彼女には冷たい水は辛いだろう
これが丁度良いと考えてベッドに腰を下ろすとの背に腕を差し入れてゆっくりと上体を起こした
不安定にならないようにしっかりと体を支えるとグラスを取り彼女の口元へ寄せる

「さぁ、。ゆっくりだぞ」

こちらの言葉にほんの少しだけ頷いて僅かに口を開けた
溢れないように慎重にグラスを傾け、咽ないように様子を見守る
グラスに半分ほど注いだ水を時間は掛かったが飲み干すと、がほっとしたように肩の力を抜くのが分かった
それを見てグラスを置くと彼女の体をゆっくりとベッドに戻す
枕に頭を乗せるとが室内を見回して、一瞬自分を見て、それから少し視線が落とされた
まだ自分を見てはくれないのか
そんな寂しさを感じながらも、今は目覚めてくれた喜びの方が大きかった

「……そうだ、オルオに知らせなければ。リヴァイもハンジも皆が君が目を覚ますのを心待ちにしていた」
「……目を、覚ます……?」

水分を口にした為か掠れた声ながらも言葉を返される
エルヴィンはそれを聞いて頷いた

「覚えていないのも無理はない。君は十日間眠り続けていた」
「十日……」
「今はゆっくりと休んでくれ。とにかく、オルオを呼んでくる」

そう言い、立ち上がると部屋を出て廊下を歩いた
オルオは早々に食事を済ませて恐らくこちらへ向かっている頃だろう
入れ違いにならないように兵舎の前で待っていた方が良いか
エルヴィンはそう思い、扉を開けると藍色に染まって行く空を見上げて僅かに目を細めた

2023.04.30 up